白石城三階櫓(天守閣)の復元が正式に市当局の政策として提案されたのは第三次白石市総合計画(通称「ホワイトプラン」昭和63年8月)。
平成元年3月には「基本構想検討委員会」から「白石城は出来る限り旧白石城と同じ規模、同じ建築方法による復元を目指し、三階櫓(天守閣)は旧跡地に建てる。文献資料収集、発掘調査などによって、出来るだけ原型に忠実に復元する」という答申がだされた。
このような経緯のもと、復元計画が実施された。
具体的な流れは、以下の通りである。
石を積む
三階櫓(天守閣)の石垣積みは「根締め式」から始まった。平成5年1月、寒風の中、重さ3t、直径1mほどもある根石(石垣の一番下の石)がクレーンを使って北西角に据えられた。
白石城三階櫓(天守閣)の石垣は、野づら積みという古い石垣の積み方を用いている。つまり、石をほとんど加工しないで積み上げる方法で、以後、打ち込みハギ、切り込みハギと精巧になる。蒲生時代の産物といわれるゆえんでもある。石垣の復元で野づら積みを採用したのは、全国でも白石城が初めててある。
石垣の裏全体には、土との間に栗石(直径20~30cmぐらいの玉石)がびっしりと詰め込まれている。内側の土の圧力を石垣全体に均等に伝えるとともに、土中の水はけをよくし、土圧・水圧によって石垣が部分的に外に押し出されるのを防いでいる。
木を組む
正倉院に代表されるように、檜は日本が生んだ最高の建築材料である。1000年を超える風雪に耐える材料はこれ以外にはない。
白石城が今世紀最後の復元だろうといわれる理由は、良質の檜の大木がもう手に入らないからである。たとえば、復元工事で最も太い柱は、大手二ノ門の柱で約60cmもの太さになる。檜は芯の部分を避けて使われるから、直径120cm以上の檜が必要になってくる。二ノ門では結局、樹齢1000年以上の台湾檜が使われた。
三階櫓(天守閣)に上がると、木ねじで木を仮止めしている所を見かけるはずだ。完成しても木は縮む。数年後に木が落ちついてから和釘で本止めするのである。
壁を塗る
白石城の左官職人は山形から来た。山形城大手門や山形大学工学部といった重要文化財を手がけたベテランたちである。
城壁は「竹小舞」といって、壁の芯にあたる部分を竹木で組み、土壁を塗る昔ながらの方法で作られた。竹小舞は太さ3cm、長いもので3.7mの青竹を、10cm間隔に井桁に組み、シュロ縄で結んでいく。その結び目に縄を下げ、1回目の壁塗りに入り、下げた縄の一本を土壁と一緒に塗る。これを表・裏それぞれ9回塗り上げる。
壁土は片倉家廟所近くの田んぼから取り、刻んだワラを入れて1年間寝かしたものである。ワラを入れると接着しやすく亀裂が入りにくくなる。さらに寝かせることで土が凍ったり融けたりを繰り返し、細かく粘り強い土に変わっていく。
最後に漆喰仕上げをし、厚さ8寸(約24cm)の壁ができあがるのである。いぶし銀の瓦屋根に、漆喰の白壁が見事に映える。
瓦を葺く
白石城の瓦は岐阜県坂祝町で焼かれた。耐寒性に優れたいぶし瓦で、軒丸瓦は言わずと知れた伊達の家紋・三ッ引両だ。発掘調査で出土した瓦を忠実に復元して使われた。軒丸瓦も含め、白石城で使われた瓦は全部で約43,000枚にもなる。
平成6年7月、白石城瓦一枚運動に寄与した市民ら約1,700人が、平瓦に墨やマジックで自分の名前や将来の夢を書いた。瓦職人は砂を混ぜた漆喰で固定しながら三階櫓(天守閣)に1枚1枚ていねいに葺いた。
瓦職人は大阪から来た。平瓦を軒先から上に向かって葺き重ね、5枚置きに釘止めする。1枚の瓦は約30cm四方。表に出る部分(葺き足)は約12cmで、瓦に重なって見えない部分の方が多い。